B級映画

その説明のつかない僕らの関係は、
一棟のボロイアパートと、
小さな映画館から始まった。

B級映画

燦々と部屋に注いでくる日の光。真上には数えるのが嫌になるくらいシミの出来た天井。未だ見慣れないその光景に数瞬逡巡する。
ああ、そうだ。起き抜けの頭がやっと覚醒した。大学に通う為に此処、喜多野アパートに越して来たのだった。名前の由来は大家さんである喜多野さんの苗字である。
四畳半一間。広いとは言えないが生活を送るには十分な部屋だ。いつもならこの時間、
隣の部屋から聞こえる筈の生活音が聞こえない。おかしい。枕元にあった携帯電話を手に取れば、表示されている時刻は8時45分。今日の講義は1講時、9時から。
「ああ、遅刻だっ!」
ぼんやりとまだ布団の中で燻りたがっている体を一気に起こす。幸いにも講義の準備はしてあるから後は身支度だけだ。いくら喜多野アパートが大学から徒歩で5分であっても寝過ごし過ぎた。パーカーとジーンズ、単純な組み合わせだがこの際仕方ない。
髪を梳かしながら騒ぎ過ぎたかと傍と思う。隣は同じ大学だから良いが、下の階に住むのは確か文という女の子だった気がする。部屋を出てから気付く。文ちゃんは女子高生だ。とっくに学校に行っているに違いない。そんな事を考えながら一気に駆け出した。曲がりなりにも高校時代はクラス指折りの足を持っていたのだ。何とかなるだろう。敷地を出たくらいで背にゆっくりとした声が掛かった。
「いってらっしゃい、宮崎君」
「いってきます喜多野さん!」
大学の1講時まで後5分。間に合ってくれと心中祈りながら駆け出した。

「はっ…はあっ…」
「おはよ、まこ。大丈夫かあ?」
本当にぎりぎりという感じだが何とか間に合った。少しばかり先生が講義に遅れているようなので休憩の時間が出来た。横を見遣れば何がそんなに面白いのか満面の笑みを浮かべた陸が居た。息を少し整えてから軽口を交わす。大概下らないことだ。昨日のテレビがどうだったの、今日は冷えるだの。ふと、陸との会話が途切れてその肩越しに人が見えた。緒方だ。派手な茶色が多い大学内でも、珍しい金色の剛毛そうな短い髪が揺れる。薄い携帯電話を手に人だかりの真ん中に居る。
「でさ、…まこ?どこ見とんの?…あ、緒方やな。相変わらずもててんな」
陸がふわふわとした羊のような髪を揺らしながら笑う。その笑みには少し妬みも入っているけど、仕方ない。同性が羨むくらいには緒方はもてた。異性にも同性にも。いいやつなのだ根本的には。だからこそ嫌えなくて妬んでしまう。
「そだな」
緒方真希。喜多野アパートの隣室、202号室の住人だ。俺が越して来るより前から居たのか、妙に喜多野さんと仲が良い。頭それなり顔良し運動それなり愛想良し。
非の打ち所のない人物だ。元気が良すぎてたまに騒がしいのが玉に瑕って所だ。
でも、アパートに人を連れて来ているのは見たことがない。騒がないようにしているのか、只単に狭すぎて人が呼べないだけなのかは分からないが。
暫くぼんやりしていたのか、気付けばまた陸の口が忙しなく動いていた。
「でさ、まこ。そろそろ俺らもサークルはいらへん?音楽系とかええ思わん?」
また、サークル関係の話。入学当初からずっとこの手の話題が続く。延々と続きそうな話に終止符を打つべく口を開くと、タイミングが悪いのだか良いのだか分からないが5分程遅刻して先生が入って来た。相変わらず光った頭皮が眩しい。
「あ、あかん先生きよった。後で話そな!」
流石に先生が居て喋る勇気はないのか顔に掛かった髪を耳に掛けなおしながら陸が言った。きっと、この講義を寝て、その後はサークルの話などすっかり忘れているだろう。

ぼんやりと、教材を手に先生の話を聞いていた。甘くはないのだがゆっくりとした伸びた口調に眠っている生徒は既に少なくはない。数刻過ぎた時、隣、陸の頭がゆらゆらと揺れだした。染めずに茶の髪をした頭。たまにかくんと下に落ちる。そんな様を見ながら先程の関西弁独特の速さで捲くし立てられた陸の話を思い出す。サークル。陸は度々誘ってくれるが入る気はない。
あまり興味をひくサークルがないのだ。昔少し齧っていた陸上も十人並みでしかなく、音楽に関しても特別詳しい訳ではない。というより何に対してもそれなりにしか興味がない。普通、平凡。自分でも自覚済みな程似合う言葉だと思う。せめて真面目という言葉を付け足そうと大半が眠気に負けてしまった講義に耳を傾けた。

「やっべ、超寝ちまったんだけど!」
講義が丁度終了した頃に緒方が悲痛とも冗談とも取れる口調で叫んだ。叫ぶ、はおかしいかもしれない。元より声が大きくよく通る緒方は、普通に喋っているだけでは会話の内容は筒抜けで、少し声を大きくすると、ともすれば叫んでいるようにすら聞こえる。
恐らく悲痛の方なのだろう。困ったように下げられた眉尻がそれを物語っていた。
確かに、先程の頭皮が眩しい先生は結構えげつない課題を出す。レポートのテーマが毎度学生にとっては取り組みにくく講義を聞いていた者でさえ苦労する代物なのだ。そんな先生の講義を一時間分丸々聞き逃したとなると中々痛い。とはいえ、緒方は友達が多いから誰かに頼ってノートでも見せてもらう事が予想出来る。緒方の友達は数人、起きていたからそれを回し読みすることになるだろう。講義前もいじっていた薄い携帯電話を手に何処かへ移動する緒方を横目で見ながら、緒方の声でやっと起きた顔に寝跡の付いた陸を見遣った。何とも、間抜けな姿だ。先程の講義のノートを差し出してやればまるで犬の様な顔をする。小さく噴出してしまったのはノートでチャラにしてもらおう。

夕暮れ。アパートへの帰り道、橙色の住宅街を歩く。普段なら陸と途中まで一緒なのだが、どうも今日は用事があるらしく急ぎ足で何処かへ行ってしまった。
目の前には人工的に染めたのが分かる金。ワックスで立てたのか短い鶏のような頭が定期的な間隔で揺れる。アパートへの帰り道が一緒になるのは初めてだ。周りには女性も友人も連れてはいない。目印である携帯にすらも触れていない。緒方らしくないな、まるで尾行しているような距離に少しうんざりしながら頭の片隅で考える。
アパートまで変わる事はないだろうと無意識の内に思っていた事が覆された。緒方が、急に右に曲がったのだ。横顔は明るい緒方らしくない無表情、暗くも真剣にも見えた。
緒方、思わず言葉が零れそうになった。らしくない表情に動揺したんだ。足が止まってしまった。そっと右を覗けば、其処にもまた普通の住宅街が続いていた。興味をそそられるような事は無い筈なのに、住宅街に似合わない先を歩く緒方の金髪に妙に惹きつけられた。スニーカーの音を殺しながら後を追う。本当に尾行だ。
俺は緒方になんか興味はない筈で、一生関わり合いになる事はないと思っている人種だったのに。矛盾に内心首を傾げる。左に曲がった。後を追えば、其処は今までよりは少し静かな住宅街だった。住宅街を暫く歩いていれば、目的地がもう近いのか少し歩調が速まった。また角を曲がった。こんなに曲がるのでは場所を間違えそうだ。でも、周りの風景を見てからそれは無いかと思った。道の曲がる左右さえ間違えなければ迷う事はない。角がある度に曲がっているのだから。
静かな住宅街を抜けて、静かながらもさっきより古ぼけた住宅が並ぶ場所へ出た。
「あ」
思わず、声が出た。緒方が、まるで昔を切り取ったような古ぼけた建物の前で立ち止まっていたから。いや、立ち止まっていたから声が出たのではなく、底抜けに元気な緒方らしくない表情を浮かべていたから。寂しげというのは違うかもしれない何かに焦がれたような表情。足元にあった石が爪先に当たって音を立てた。さっきの声、今の音。静かな其処ではやたらと響いた。緒方は、気付く様子はない。緒方が見詰めているのは新しいのと古いのがない交ぜになった看板。人気がなく地味で、けれど映画館という文字が薄れながらも見えるので映画館であるのだろう。緒方の目的地は此処らしい。地味な場所だ。いつも人に囲まれていて阿呆のような金の髪をした普段の緒方には似合わない場所。外見は一つも変わらない、儚い印象さえ受ける今の緒方にはとても似合う場所。
緒方が映画館に入るのを見てから、其処を後にした。何だろう、あそこは。
存外喜多野アパートに近かった映画館。映画館から二つ角を曲がった所にあった。何で緒方はあんな風な道筋を通ったのだろう。緒方の秘密を知った気分だった。

翌日は学校は3講時からだった。いつもより遅めに起きて、のそのそと大学に向かった。特に何をしていたという訳ではない。あの映画館を見た後は何処にも出掛けなかった。
その日も隣から生活音はしなかった。緒方とは選択も必修も被っているから、登校時間は同じなはずなのだ。この頃合わない。自分の登校時間が只単に遅くなっただけだろう。本片手にまた喜多野さんと挨拶してから、学校に向かった。学校が近くなった頃。金の髪は見付からず、ふわふわ揺れる茶色の髪が見付かった。陸だ。小柄な身体がひょこひょこと跳ねるような、歩くような、判断し難い歩き方で大学へ向かっている。
「陸!」
声を掛けても返答も、反応もない。陸は嘘のつけない性質だ。何処かしらに動揺が出る。その陸が、振り返りもしない。足を速める。速足とまでいかないが、昨日緒方を追ったくらいのスピードで。近付いて分かった、陸の小さな頭に似合わないごついヘッドフォンがある。音楽でも聞いているのだろう。鼻歌を小さく刻んでいる。色取り取りな鞄が掛かった肩を叩いた。と、ひどく驚いた色の浮かんだ瞳が向いた。
「な、あんや。まこか、驚かさんとってやー!」
いきなり陸の表情が変わった。友達に向けるようの顔だ。相当驚いたのか、心臓の辺りを押さえていた。オーバーリアクションだけれど、こういう所が陸らしい。明るいけれど、心地良い感覚で接してくれる。立ち入り過ぎず、離れすぎず。
もう音楽を聴くのはやめたらしい陸と会話しながら大学まで歩いた。始業前、陸とは今日科目が違うので教室前で別れた。入って、普段つるんでいる友人の方に寄ればいつも通り会話が始まる。また、友人の肩越しに緒方が見えた。まるで昨日の表情が嘘だったかのような明るい表情。阿呆らしい振る舞い。つくづくいつも通りだった。
講義中もそっと横目に緒方を観察してみたが何も変わった様子は無かった。
あれは見間違いだったのだろうか。
大学の今日の講義が終わった。今日は陸はバイトの日なので、また挨拶だけすると忙しなく帰宅していった。他の友人から遊びの誘いを受けたのだが、また一人で帰っていった緒方が何処と無く気に掛かって、断った。
夕暮れではなく、まだ少し日が高い。昨日より少しばかり遠い位置に金色の髪。昨日とは違う角で曲がる。昨日よりアパートに近くなった角で。着いて行って、分かったのは角の数が少し減った。昨日のは遠回りでもしていたのだろうか、今日はやたらと角を曲がる数が少なかった。やっぱり目的地は映画館のようで、一度だけ馬鹿みたいな看板を見上げてから入って行った。昨日は気付かなかったけれど、B級映画ばかりやっているのか、有名な映画どころか、こういった所であれば有りそうな艶物や、陳腐な恋愛映画の看板すらもなかった。やたらとコメディ要素の強い映画ばかりが三、四種類。緒方、変わった趣味だな。今日もまた、映画館には入らなかった。
アパートに帰るにはまだ日が高すぎる。先刻の誘いを受ければ良かったかとも思いそうになるが、緒方の事がなくても多分断っただろう。今日は家で休もう。小さく欠伸を噛み殺して帰宅路についた。そんな事を数日、繰り返した。そんなある日、いつものように映画館を見てから帰ろうと思ったら、予期せぬ人に会った。喜多野さんだ。
「喜多野さん?」
「…ああ、宮崎君。どうしたんですか」
「俺は此処の映画館を見に来ました。喜多野さんこそどうしてこんな所に?」
「映画館を?いやね、私は此処の館長なんですよ。良かったら、見ていきませんか?」
その言葉に甘えて初めて映画館に入った。古ぼけた昔の映画館だ。
館長。喜多野さんが、何処と無く人を惹きつけるこの映画館の。世間は狭いのだなと少し可笑しくなる。受付を通り過ぎた時に文ちゃんが其処に座っているのが見えた。お手伝いなのだろう。真希君と同じ所で。そんな風に言われて着いたのは人がひどく少ない、がらんとした上映場。緒方であろう金の髪の人物と他に数人、座っていた。
「直ぐ始まりますから何処か適当に座っていて下さい」
小さく囁いて、喜多野さんは何処かへ消えた。俺は辺りを見回して、緒方の表情がよく見える位置に席を取った。いつ始まるのかとじっと待っていれば、喜多野さんの言葉通りすぐ始まった。初っ端から訳が分からない。展開もストーリーも滅茶苦茶としか取れない。小さな笑い声だけが周りから聞こえる。笑い所が分からない。多分、映画一番の見せ所であろう山場。大きくはないが笑い声が多方向から聞こえる。俺も小さく笑ってしまった。緒方の表情を盗み見る。
笑って、いなかった。ひどく真剣な瞳でじっとスクリーンを見詰めている。睨みつけているのだろうか、身じろぎもしない。笑いが一気に失せてしまった。そっと目を逸らしてまたスクリーンに目をやった。
その日、緒方はエンドロールが流れ終わってもその場から離れなかった。俺はそれだけ見て、その場を後にした。緒方じゃない、あんなの。時計を見れば、何時の間にやら凄まじく時間が経過していた。時間の経過も感じなかった。不思議な、空間だった。
喜多野さんにお礼を言ってからアパートへ帰った。割り方面白かった。B級映画らしい、馬鹿馬鹿しいけれど面白い。ふと胸の辺りに手をやればいつもより興奮しているのか、鼓動が速い。惹き付けられたのだあの空間に、映画に。
サークルに映画関係はなかっただろうか。映画関係なら、入ってもいいかもしれない。

その翌日、また俺は大学終了後に、映画館に向かった。緒方が見ているらしいという昨日と同じ映画。喜多野さん曰く、毎回同じ映画しか見ないらしい。毎回、あんな表情をしている訳か。それが気になってまた昨日と同じ位置を陣取った。
映画の内容と、緒方の表情だけが気に掛かった。でも、ふと見たエンドロールが今回は一番の驚きだった。
「え、あ」
緒方幸平。”緒方”。珍しい苗字ではない。他人かもしれない。だが、エンドロールでその監督名が流れた時の緒方の表情を見て、直感的に分かった。あれは緒方の知り合いだ。暫く考えた。どうするか、何をするか。緒方が普段、猫を被っていることもなんとなく分かった。緒方幸平の字を睨んでいた緒方が素だ。その素で、緒方と関わりたい。
緒方の表情に俺はひきつけられている。友情ではない、もちろん恋愛感情なんか程遠い感情。暫く考えて出た結果は、俺は緒方と何かしら係わり合いになりたいのだ。

サークルの作成方法を調べた。学生の俺でも作れる。友人を数人誘った。陸は入ってくれて、他の友も数人入ってくれるらしい。緒方は、どうだろう。
サークル名は映画研究会。何故今までなかったのか不思議なくらい有りふれたサークルであると思う。アパートに緒方が戻ってきた気配がした。202号室の扉を、引越して来て以来だろうか。
「緒方」
「…何、宮崎だよね」
「おう、んで…緒方良かったらサークルはいらね?映画研究会」
「は…?何、勘違いしないでよ。俺は別に映画好きな訳じゃないって…」
言い訳しようと思ったのか、まだだらだらと続きそうな言葉を遮るべく調べた情報を思い出す。映画好きじゃないかもしれないが、でも、映画に惹きつけられてるのは確かだ。
「緒方幸平、緒方の父さんだろ?」
「…なんだ、あそこにこの頃来てると思ったらそんなとこまで調べたんだ。兎に角入る気はないから」
バタン。無情にも202号室の扉は俺の言葉を拒んだ。
でも、明らかに今の緒方は素だった。無理矢理にあげたテンションではなかった。
俺は緒方にとって素で接する存在なのだ。多分、あの映画館に行っていて、此処のアパートの住人であるからなのだろうけど。まだ、望みは捨てない。
折角興味を持てたのだ、諦めるものか。


それから数ヶ月後、
「なあなあ今度新作映画出るやん、見に行こうやー!」
「俺ぱーす。どうせアニメかべたべたの感動物だろー。な、まこ」
「俺は行ってもいいよ陸」
「まこ…!やっぱろ俺の友達はまこだけやわ。緒方みたいに冷たないもんな!」
「陸のおごりなら」
「ぶっ」
「まこおおお!」
「そこうるせー!」
映画の好みも選択も、それこそ学年すらも十人十色。けれどいつも笑い声が溢れる映画研究会が存在した。
「それよりさ、父さんの新作出たんだ。あそこでしかやらないけど一緒に行こう、まこ」
「…行く!」